一度は当てたい宝くじ!! 当たらないけどね。

宝くじ 富籤 発売・抽選 当選金額の支払い
もしも、ピアノが弾けたなら…

富籤

起源

日本の宝くじの元祖といわれているのが、江戸時代に行なわれている『富くじ』だと言われています。その始まりとしては、寛永の時代、場所は京都で行われていたと言われています。しかしその後天保の改革によって富くじ自体が禁止されることになるがその後文化・文永時代のことには緩和され、富くじとしての歴史はこの頃が流行の頂点にあったと考えられています。この頃から日本人にとって宝くじと言うギャンブルが流行っていたということなのかもしれないですね、案外切り離してい考えるのは難しいのかもしれません。

起源も諸説あり、もう一つは鎌倉時代、現在の大阪府箕面市にある瀧安寺の箕面富が起源ではないのか、とも言われています。もしもこれが原点だと考えると実に950年もの歳月で宝くじという原型が完成しているということになります。ギャンブルの歴史が古いという事に対しては何の異論もありませんが、ここまで来ると人というものがいかに娯楽を求めていたのかがよく理解できます。しかしこの頃は今のように現金での支給ではなく、弁財天のお守り『本尊弁財天御守』だったと言われています。日本では宝船に乗っている紅一点の福の神とも言われていますが、弁財天は財宝を司る神でなく、本来は学芸の神であるとも考えられています。どうして財宝の神と考えられるようになったのかについては、弁財天が使役する使い魔が蛇であると言われており、そこから福を呼び込むことを暗示しているとして財宝神としての色合いが強くなっていると考えられています。これは日本人お決まりの、神様を自分達のいいように捻じ曲げてしまう考え方が一番現れていますね。

元々はお守りをもらえるという健全的なくじであったが、徐々にそこから金銭が副賞としてつくようになり、賭博としての面が強くなって資金収集の手段として用いられるようになっていったのである。

宝くじの贈与税

富くじには対しての幕府の対応

もちろん、そんな賭博の色を帯び始めていた富くじに関して幕府が黙って見過ごすことはなかった。度々禁止令を施行したりするなどの対策が練られたが、享保15年に幕府公認の下で、仁和寺門跡の宅館修復を名目にした富突を護国寺で3年間行なってからは、富くじは主に寺社の修理費用に当てるために興行されていました。こうしたこともあり谷中感応寺、目黒滝泉寺、湯島天神は三富と呼ばれるほどに盛況し、寛政の改革期には、松平定信によって江戸・京都・そして大阪の三箇所での実施、もしくは毎月興行の分を1年3回とするなどの抑制がされるようになったが、文政・天保年間に入ると再びくじは熱を盛り上げ、手広く興行が許されるようになった。しかしその後天保13年3月8日に水野忠邦によって禁止されることになるのであった。

関西での特色

京阪では当富の番号を大幟に記して、札屋の軒前に立てかけるものもあり、例え当札のない店でもこれを模造して立てた。富くじ興行の当日、『御はなし御はなし』と声を高くして叫びながら市中を駆け回り、番号を書いた紙片を売り歩く者もいた。

陰富

江戸においては富札は初期には1枚1分という値段で販売されていた。文化・文政期でもその半額の2朱でかなり高額な値段となっていたので、1枚の富くじを購入するだけで数名で買う『割り札』が流行っていた。ところがさすがにこんな高額では割に合わないとしてもっと手軽に購入できる物として庶民がてを出したのが『陰富』で勝手に個人で富札を作って、一文程度で売りさばくといった事件が発生する。公式の番号が発表になると瓦版にして翌日配り同じ番号のものに8倍の八文にして返していた。当然非合法であるために、当局に知られれば処罰となるので、当選番号を配るときは『富くじの当たり番号だよ』と触れ回ることは出来なかったので、単なる瓦版売りを装い『お話だよ』、『お話だよ』と触れ歩いていた。これが大人気となって最初は長屋の職人のお慰みであったが、後に武士階級にまで広がって、御三家の一つの水戸家でも陰富の勧進元となっていた。それを種に茶坊主の河内山宗春が強請りをすることになったといわれている。

興行元

富くじの発行元として、江戸では京放棄の江戸の三富に加えて、文政以降になると興行元は数十箇所へと増加することになった。主な寺社としては浅草八幡宮、浅草観音、浅草三社、浅草念仏堂、浅草大神宮、浅草焔魔堂、本所回向院、深川霊岸寺、芝明神、愛宕山、西久保八幡宮、白山権現、根津権現、平川天神などがあり、突富興行御免を受けた寺社は毎月、または年数回興行していたので、中々良い財源の一つとして重宝されることになったといわれている。

販売・購入方法

項業種において数戦、もしくは数万のくじ札を作って、それに番号をつけて日を定めて抽選を行なっていた。例えば、興行主から富札店が富札1枚を銀12匁、現在でいうところの約1.000円ほどの値段で富札1枚を買ったとすると、札屋はこれにされに手数料などを上乗せする形で、13、または14匁で販売することになる。売り出すときには当局に申告するため定価を定めていたが、札屋から庶民に売るものについては、その時の人気次第で値段は変動していた。

この札は1人で数枚を買うこともでき、1枚を数人で買うこともできた。校舎の買い方を『割札』と呼び、本札は取次人の手に留めて仮札を貰う。判割札を買った場合に関しては、褒賞金はもちろん2/1になり、4つに分けたものを4/1に分割することになるので、手取りは少なくなる。

抽選方法

始めに、大きな箱に、札の数と同数の、番号を記入した木札を入れる。続いて箱を回転し、側面の穴から錐を入れて木札を突き刺し、当選番号を決める。そして当選した富札の所有者に、あらかじめ定めた金額を交付する。

配当方法

当選方法にはいくつかの方法があり、次第に複雑化していくことになる。

当には、本当があって1から100まである。これは100たび錐で札を突くことで、例えば第1番に突き刺したのが300両、以下5回目ごとに10両、10回目ごとに20両、50回目は200両、100回目には1.000両、という風に報奨金がもらえる仕組みとなっている。

これらの21回数を節を呼び、節を除いた残りには、何回目ということを予めて定めることで、間々といって少額金を与えることもあったといわれています。節の番号数の前後番号にいくばくかの金額を与えていたが、これを両袖と言います。袖と言って、両袖を傍らの番号に、少額のものを与えるようなこともあった。

斧打数が大多数に上るときは、番号には松竹梅・春夏秋冬・花鳥風月・または一富士・二鷹・三茄子・五節句・七福神・十二支と言ったように大分類を行ない、そのそれぞれの番号をつけてそれによって金額を与えていた。これを『印違合番』という。

この場合、両袖がつけてあると、各印ごとに300枚ずつ金額の多少に関わらず当たることになり、本当の他は花と呼んでいた。元返という、札代だけを取り返すものもあった。当選したものは報奨金全部を入手することは出来ず、突留1000両を得たものはその100両を修理料として興行主に贈り、100両を札屋に礼として与え、その諸経費と称して4,50両取られたから、実際に得るところはおよそ700余両であった。

時代に伴って変遷は所々変わっているものの、大本の根幹的な部分はそこまで変わっていないことが理解できる。

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